妻のたえぽんと温泉に行ったときの話です。
一人で朝風呂から帰ってきたたえぽんが
「お風呂に入っているときに、朝焼けに浮かぶ月を見て、あ、この月は自分が創った。月だけでなく、この世界のもの、全部自分が創ったことを悟った」
と言い出しました。
これこそ、腑に落ちたという感覚なのでしょう。このような体験、正直ちょっとうらやましくないでしょうか?
”この世界は自分が創った”というのは、誰もがこの世界を作った創造主の一部だから。
下記の図(*1)のように、人間は「創造主」から、 滴のようにエネルギーをもらって、生まれてきますが、分離してはいません。
繋がっています。
つまり、今も自分は創造主の一部なのですから、この世界のすべては自分が創ったとも言えるでしょう。
まあ、そよ風的には、創造主ですらじぶんが創り出しているという考え方なのですが、それを言い出すとわけがわからなくなりそうなので、また機会があれば説明したいと思います。
このような説明は、いろんなスピリチュアルな書籍などでよく言われている話ですので、驚く話でもないですし、頭では理解されている方も多いと思います。
冒頭のたえぽんのように、悟りのような、腑に落ちる体験をしたいと願うのが人情でしょう。
ここで、ヘルメス・J・シャンブさんの言葉を引用したいと思います。
「人は、何か驚愕する奇跡を期待している。だが、真理とは、すぐ目の前にあるものだ。誰もがこの真理を生きているのだ。それは、まったく普通に起きていることなのである」*2
輝かしい神秘体験はそれはそれで素晴らしいことでしょうが、それを期待したり体験する必要もないわけですね。
もう一つ、ヘルメス・J・シャンブさんの言葉を紹介します。
「いくら本を買いあさって、 言葉による知識を求めても無駄だ。無駄なのだ、と理解するまでは、素晴らしいたくさんの本を読みなさい。本を読むことで悟りは起きないと悟ったなら、もう十分だ。」*3
いくら本やこのようなブログを読んでも、腑に落ちるような悟りを得られないということでしょうか。。
まあ、だからといって無駄ではないようです。
自分がその時、そのタイミングで必要だと思う情報や知識を吸収して、気づきを得られればいいですね。
*1 出典:「無」を知ることで得られる「最高のギフト」(清水 慈永)
*2 出典:“それ”は在る(ヘルメス・J・シャンブ)
*3 出典:道化師の石(ヘルメス・J・シャンブ)
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