ふと、浮かんでくるこのフレーズ。
何による、傷、その痛み、なのか?
と問いかけると、 分離、と返ってくる。
なるほど。
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たましいのふるさとである 源 -みなもと- をはなれることと、その痛みは、
肉体的には、母胎からの分離=この世に産まれ出でることと、その痛みの記憶として、あらわれるようです。
また、その痛みの記憶は、恐れの感情とくっついていることが多いため、
そのことをまっすぐに見つめるのが、時として、むずかしく感じる場合もあるのでしょう。
そこにある真相は、むずかしく《感じる》だけであって、むずかしいこと、ではないのです。
そして、たましいの痛みは、時として肉体に反映されるようです。
それが、身体の痛みや、いわゆる「症状」と呼ばれるものですね。
身体の健康、ひいては、心や精神の健康をのぞむのであれば、
ケアするべきは、何においても、たましい、なのです。
そこに繋がるアプローチとしては、自身の親子関係や家族関係のことを、あらためて見つめてみる、というのは一つの方法になるのでしょう。
からだという《ミミ》を、その感覚を研ぎ澄ませて、内なるたましいの声を聴く・・・
かならず、聴こえるのですよ。誰しも。
あなたにも。かならず、です。
たましいは、《その時》が訪れるのを、たのしみにしています。
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