先日のそよ風主催のセラピスト・ヒーラーさん交流会のイベント終了後、運営メンバーとの雑談の中で、「愛を受け取るのが上手な人」「受け取り上手のお手本」と言われまして、思いもよらない言葉に、心の中ではあわあわと、実はかなりビックリしていました。
とうのも、「受け取れない人」と言われたことはあっても、それが得意だなんて程遠いところにいたからです。
学生の頃のバイト先の先輩にも「なんでそうなの?素直にありがとうで良くない?」と言われたり、仕事やプライベートでも「大丈夫じゃないのに、大丈夫!って言うよね」とか、「そんなにやってもらうことが嫌?」「お返しとか気にしてばかりだね」などなど、夫からも屈折してると言われたり、ま~、受け取れないエピソードなら、いくらでも書けるんじゃないかってくらいでしたから。
やってもらう=借りを作る、借りはできるだけ早く返さなきゃ!という思考回路にありました。
そして、頼ること=依存だと誤解していました。
その頃の方が、周囲に察することを求め、精神的にはとても依存的だったと今なら分かります。
そんなわたしが、受け取り上手? お手本??って。
いつの間に、そんなことになったのかを、振り返って書いてみたくなりました。
今に至る大きなきっかけは、大病をしたことです。
脳脊髄液減少症や線維筋痛症など、いくつもの病気を抱えていました。正確に言うと、わたしの場合は、完治はしないと言われていたので、今は寛解という状況です。
まだ30代になったばかりの頃でしたから、このまま寝たきりのような生活が続いたらこの先の長い人生どうしようとか、外出するには車いすが必要なんじゃないかと、買おうかどうしようかとう状況にもありました。
病院に自力で通院するには、ある程度は元気じゃないとできないのだと身にしみて分かってしまい、悲しくて悲しくて。
自分の身を自分で支えることさえ難しい状態のときもあったので、重いものを持つな、ペットボトルの蓋さえも人に頼んで開けてもらいなさいと言われました。
主治医から繰り返し言われたことは、「お願いしなさい」「やってもらいなさい」「頼りなさい」でした。
振り返って見ると、相当な頑固者だったので(笑)、それを言われるたびに「でも、、、、」「そうは言っても、、、」と言い返し続けていたのですけどね。
社会から取り残されたような、自分だけ時間が止まってしまったような感覚にいました。
生きている、ただそれだけでも何かを消費しなければ生きていけないわけですから、何一つ生産できない日々を送らなければならないのなら、消えてなくなってしまいたいと、ただただ惨めでどうしようもなくて。
負のオーラ万歳でしたから、夫との関係も上手く行くはずはなく、離婚して、どうやって生きて行こう?と、そんなことばかり考え続ける毎日でした。
そんな風にひたすら陰に、ネガティブな自分と向き合い続けたある日の事。
究極、この日本で飢えて死ぬことはないということに気づいたとき、わたしが思うより世間は優しいんじゃないかって思ったのです。
もしかしたら、もう二度と働けるようにならないどころか、自分のことさえもままならなくて、何かをお返しすることができないかもしれないのに、それでも生きていていい、生きてるだけでいいんだって許してもらっていることに気づいたときに、見えている世界が変わったのです。
助けてと言う勇気さえあれば、いいのかもしれない。
自分はどうであれ、人を信じてみてもいいんじゃないかって。
ペットボトルの蓋だって、わたしの病気のことを知らなくたって、いちいち病気の説明をしなくたって、「開けられないから開けてください」と、お店の人やたまたま居合わせた誰かにお願いしたら、開けてもらえるのです。
相手を信じてみる。
相手の愛を信頼して、人の手を借りて、受け取らないと生きてこれなかったとも言えます。
いい意味で降参して、頑なに守ってきた何かを明け渡してしまえる自分になることは、わたしにとっては必須だったのです。
そして、「愛」や「やさしさ」って、目に見える行動としてばかりじゃなく、目に見えないエネルギーのやり取りもあるのだと思うのです。
気づいてても、気づいていなくても。
なんでもかんでも受け取ればいいとは思いませんが、必要ならば、相手の好意を信じて受け取れるように、半ば強制的にトレーニングさせられ、少しずつ少しずつできるようになってきたことで、見えない何かも受け取れるようになってきたのかもしれません。
そうするうちに、自然と、数年前から「愛のある人だね~」とか「愛いっぱい」と、周囲から言われるようにもなりました。
わたしはわたしだけで作られているわけじゃないから。
もらった愛がわたしの中で居場所を見つけ、定着できることで、「愛のある人」と他の人の目には映るのかもしれないと、今に至るまでを振り返って思います。
受け取る力は、年齢を重ねれば重ねるほど、必要になってくるのかもしれません。
なぜなら、若い頃ならどんどん出来ることが増えていきますが、50歳が近くなる頃から、今度は逆に出来ないことが少しずつ増えていくからです。
そういったときに、誰でも、「受け取る」や「誰かの手を借りる」ことが必要になってきます。
だからこそ、回していける、手渡していけるとも言えるかもしれません。
そういう意味では、幸運にも、わたしの場合は病気という強制力で、同じ年代の人よりも早くからその部分を、受け取り上手と言われるまでにトレーニングしてこれたのかもしれませんね。
「幸運にも」と書きましたが、本来であれば、自分に病気のレッテルを貼り付けなくても、受け取っていいし、手を借りていいのです。
それがわたしは病気にならないとできなかったというわけです。
受け取ることに条件は必要ありませんから。
誰でも、年齢も性別も関係なく、受け取り上手になっていいし、なれると思います。
そしてこれからは、受け取って来たみなさんからの「愛」を、他の誰かにも渡して、循環させていけたらと思っています。
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