タイトルは悟りを目指して歩んでいるかのような印象を受けるかもしれませんが、そんな立派な話ではありません。(笑)
「穏やかな人間になりたいなあ」と思い続けて、結局なれなかった人のお話です。ちょっと違うかな?目指すことを諦めた人のお話でしょうか。
私も、アイキャッチ画像の「わらすっこ姉弟」のように、坂道を前を向いて「穏やかな人間になる」って歩んでいました。
といいますのも、高校生の頃から、外面は静かで穏やか。しかし、内面は嵐?山手線のようなぐるぐる思考?で、安らぐときなどない状態でした。
なぜなら、いつも、心の中は自己弁護、相手への批判、取り越し苦労でいっぱいだったのです。なにせ、自分の意見や考えを口で表現することができない性格で、いろんな思いや感情が、内面に渦巻いていたんですね。
そんな自分が嫌いで、なにかを求めていました。そんな私が、最初に出会ったのが、「平静心」という言葉でした。
19歳の頃、こうした演題の話をカセットテープで聞きました。
そこでは、こんな風に述べられていました。
「まず幸福ならんとする人は、自らの心のなかに、静かなる湖面のごとき、そうした平らかで光り輝く水鏡を持っていなくてはなりません。幸福になるためには、その鏡が、いつも平らかで、光を放っていなくてはなりません。鏡は平らかであればこそ、この世の中の姿を見事に映すことができます。(中略)世界を正しく映すために、他の人の姿を正しく映すために、ましてや、自分自身の姿を正しく映すために、そうした平らかな湖面を持たなくてはなりません。」(大川隆法著『情熱からの出発』より)
そのときは、「これだあ!」と思って、「平静心、平静心」と思って生活していました。
その後、40代になり、まだ相変わらずの内面の荒れ模様のなか、ジェームズ・アレン著『原因と結果の法則』に出会います。そこには、こうありました。
「穏やかな心は、この上なく美しい知恵の宝石です。それは、自己コントロールの長く粘り強い努力の結果です。そして、それが存在する場所には、つねに、成熟した人格と、『原因と結果の法則』に関する確かな理解が存在しています。」
それから、アレンの本を読みあさり、心の指針としました。
しかし、当時、精神的肉体的経済的な悩みが複合的に発生し、心は乱れ、この世的な成功をしなければと、焦りに焦っていました。しだいに、心身は疲弊し、イライラが募り、キレやすくなっていきました。
そんな日々のなか、今から5年ほど前、48歳位のときでしょうか。再び、「心のやすらぎが、私たちの唯一の目標である」ことに、回帰する出会いが訪れます。
アティテューディナル・ヒーリングの創始者ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』との出会いです。そこにはこう述べられています。
「私たちが経験することの正体は、『世界』という外側のスクリーンに映し出された、自分の心の状態です。この世界と、その中にあるものが、私たちの思いや空想を映す鏡になります。やがて心がスクリーンに映すものが私たちのものの見方となり、それに固執しているかぎり、私たちの視野は狭められてしまいます」
ここで改めて、「心の平和が唯一の目標」(→アティテューディナル・ヒーリングの原則)であることを確認し、ジャッジをしないことや「今を生きる」ことの大切さを学びました。
これで、「心の平安を求めて歩んだ旅路」も終着駅に達したかと、思うでしょうか。
いやいや、まだまだ。(笑)
この道は「どこまでも遠く」といった感じでした。
そして、去年、ソラ先生というヒーラー?と出会います。電話セッションで言われたのが次の言葉でした。
「理想の自分になろうとすることそのものが、自己否定になっている。だから、そのままの自分を肯定するだけ。短気であるということは、感情に素直ということ。見方を変えてみる。それで、評価も変わってくる。人は片側だけみて善悪を判断するが、良い悪いではなく、物事の本質だけみてみると、『どちらでもない』。すると、トラブルやストレスがなくなっていく」
なるほど。
まあ、それ以降も、イライラ、ぐるぐる思考、取り越し苦労はかわりません。
ただ、「だから自分はダメ」「穏やかでない自分はダメ」という「穏やかさに対する執着」は薄れました。
結果、生きるのが少し楽。
すると、穏やかな時間、安らぎの時間がなぜか不思議と増えてくる。
まだまだこのお話は、旅の途中。
どんな感じになって行くのか。
ただ言えることは、出会った4人の先生のうち、誰が欠けても、こうした「発見の旅」は歩めませんでした。
また、「今」を繰り返しつつ、旅の途中を進めてみたいと思います。
(画像は「わらすっこ姉弟 田沢湖畔を行く!」でした。)
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