映画《すずめの戸締り》を観てきました。
少しネタバレなところもあるので、
これから見る予定の方はご注意くださいね。
すずめちゃんは、ある日突然、お母さんを亡くしましたが、
わたしも、実の父を、3歳になった翌月に、かなり急に、亡くしました。
記憶にある父の姿は、布団に横たわり、すでに動かなくなった見知らぬ男の人で。
その傍らで、母が泣いている映像だけが焼き付いています。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものですね。
父が残した影響は、わたしが思うより遥かに大きかったようです。
わたしの【死】に対する感情は、「無」だそうです。
去年、そよ風くんに言われました。
わたしにとって死は、遠くの出来事でも、特別なことでもなく、
とても身近なもので、そこをずっと見続けてきたからだと。
そよ風くんが言う通り、わたしが死に対して無であるならば、
わたしが死ぬことより怖いのは何かと言えば、
この世界に置いていかれることなのです。
父に、この世界に置いてけぼりにされてしまった。
見捨てられたと感じているのかもしれません。
だから、それほど親しくない方や、ちょっと会ったことがあるくらいの方が亡くなっても、
なんとも表現しがたい恐怖を感じたり、どうしようもない虚無感に襲われていたのだと、
改めて自覚しました。
話しは変わりますが、すずめちゃんと、おばさんとの関係。
ある人が今、わたしに対しておばさんのような状態にいます。
わたしがおばさんのような立ち位置の時もあり、
すずめちゃんの立ち位置にいるときもあると言った方が
正確に近いかもしれません。
すずめちゃん達とは、年齢差も立場も違うのに、今のわたし達に重なって見えました。
その人が、今、この瞬間、
もしも、わたしのことを殺したいほど憎んでいたり、嫌いだったとして、
わたしは、そこ、どう思われていてもよくて、どうでもいいなって思ったのです。
これは、極端な表現かもしれませんが、
誰かに対して、めんどくさい、ウザいなど、
一度たりとも頭をかすめたことさえない!という人はいないと思うのです。
だから、わたしに対して、罪悪感や申し訳ないなどと思わなくて大丈夫で。
ただ、その人がその人であってくれれば、それで良くて。
今、この瞬間、同じ時を生きて、
この世界のどこかで生きていてくれる、
ただそれだけのことが、とてつもなく有り難い奇跡で。
【幸せ】って、幸せしかなければ、感じられないのです。
おばさんが、すずめちゃんに言い放った言葉は本心で、
でも、その苦しみや憎しみの一方で、幸せもあったわけで。
不幸と思えることがなければ、【幸せ】もないのです。
【幸せだけの人】なんていません。
そこ、セットで、どちらかしか要らない!とは出来ないのですね。
覚醒しようが、何かを悟ろうが、不幸を感じるし、悲しみに打ちひしがれたりもします。
ただ、分かっていることは、
起きた出来事が「良いか悪いか」、
人との関係において、「良縁か悪縁か」ではなく、
そのどれ一つが欠けても、今のわたしはいないということ。
だから、「全てに感謝」なのだとも思うのです。
「奇跡」や「覚醒」については、前回の投稿で書いていますので、
よろしかったら、そちらもお読みいただけたら嬉しいです。
奇跡とは?覚醒とは?~映画《すずめの戸締り》~ | そよ風の仲間たち (teamwind.jp)
前回の投稿で、風くんの「grace」の曲を紹介しましたが、
こちらもよく聞いています。
藤井 風 – “帰ろう” Official Video – YouTube
もうすぐ今年も終わりを迎えようとしておりますが、
どうか皆さま、来年も、その先もずっと、
わたしより長生きして、わたしの世界に居てくださいね(笑)
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ヒーリングとは、心身を癒し、本来のあなたを思い出すこと。
本当に望みさえすれば人生の再設定は可能です。
過去だって書き換えられる。
「あなたが見ている世界は、あなたが創っている」のだから。
明日が来る「奇跡」に、全ての存在に、感謝を込めて。
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